意外と地元で知らない、そして誇りとしていない、わが秋田の佐竹候のこと!
1、超名門の佐竹候
清和天皇(平安時代850年頃)、清和源氏の正統、新羅三郎(源義光)を祖先とする名門である。
佐竹候ほど、古くかつ由緒ある祖先をもち、そして明治維新まで連綿と続いた大名は、外に例がない。(「佐竹氏と久保田城 渡部景一」より
2、佐竹候の盛衰
名門でも、737年も長く続けばいろいろあります。「驕る平家も久しからずや! 必ず栄枯盛衰があります。佐竹候はトップではありませんから、どちらかにつかなければなりません。トップの盛衰に合わせて、右や左に行かなければなりません!!
豊臣家の天下の時は豊臣のもとで、水戸の佐竹で54万石・・・絶頂でした!!
でも、関ヶ原には悩みぬきました・・・時既に遅し・・・・
秋田20万石に移封(左遷)でした。
3、常陸の佐竹候
常陸太田城に470年間もいたのです!!
水戸城に12年間いました・・・水戸光圀(黄門様)がその少し後ですね。
水戸にいたのですよ・・・絶頂期54万石です!!
常陸太田城Hあ山城で発展性がない、中心部で丘の上の平山城でした・・・。
4、秋田の城はどこ
佐竹候は1602年から秋田に来ました、明治維新まで。
さてお城はどこにしようか、秋田か横手か。秋田は平山城で雄物川にも近い。横手は山城で防御はしやすい。父の義重派が横手、義宣侯派が秋田。もちろん秋田と決まりました。
秋田でのお城と旭川掘り替えから町わりまでの都市計画は、中国思想を取り入れた四神相応の都市計画でした。(こちらは別途に)
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