2010年12月6日月曜日

■さきがけ文化欄に「清水九兵衛」掲載












四国お遍路のご縁で調査した「秋田清水九兵衛」の投稿が掲載されました。

1、秋田魁新報文化欄掲載

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能代の豪商の意外な足跡
    四国お遍路と清水九兵衛
 石井(いしい) 護(


 かねてから四国お遍路に憧れていたが、なかなか現地に出掛ける時間がとれない。そこで3年間かけて少しづつお遍路する計画を立て、お遍路をスタートしたのが2007年5月だった。
目標は「四国八十八ヵ所・空海のことば刻字奉納」。お遍路を含めすべてが完了し、香川県さぬき市の「おへんろ交流サロン」の木村照一館長さんに、高野山の分を含めた89枚の奉納札と解説などの資料一式を奉納したのが今年の1月だった
          
おへんろ交流サロンは第八七番札所と第八八番札所の中間にある。古くからの四国お遍路に関わる貴重な資料をたくさん集めて展示している公共の展示施設であり、連日多くのお遍路さんが立ち寄っている。
私は、雑誌のお遍路特集で木村館長さんを知ったのがきっかけで、07年の秋、木村館長に会うためサロンを訪ねた。私のお遍路のこと、奉納札一式を、分散させるのではなく1カ所に奉納したいことをお話しすると、木村館長は、サロンでの受け入れを快諾して下さった。
その折、お遍路宿でいろいろお話をうかがったところ、江戸時代の秋田の人で清水九兵衛という人が話題になった。第八七番長尾寺近くに、お遍路道を案内する「道標」を設置したが、この人がどんな人だったかは全く不明であるという。「秋田に帰ったら、清水九兵衛さんのことを調べてくれませんか」と頼まれた。翌日、さぬき市教育委員会の方たちに清水九兵衛の道標を案内してもらい、調査の上で報告することを約束して帰った。

さて秋田に帰って調べるにもまったく当てがない、江戸時代、わざわざ四国にお遍路の道標を建てたのだから、四国にゆかりがあり、四国お遍路という文化を十分に理解している人、資産も十分にある人だろうという推測は成り立つ。そこで、生駒藩主が香川県から移封された旧矢島町から始め、北前船の港があった秋田市土崎地区も調べたが、清水九兵衛は見つからなかった。
しかし」、やはり北前船の関連で能代市市史や文献を調べるうちに、清水九兵衛にたどりつくことができた。同市の多くの方からいただいた貴重な資料から、次のようなことが判明した。
清水九兵衛は屋号である。清水九兵衛の本家清治郎兵衛が1556年、現在の同市大町に移ったのが能代のまちづくりの始まりとされ、1666年、大町の廻船問屋の一人に清水九兵衛の名が残っている。1715年、清水九兵衛が長崎廻銅を取り扱う長崎御用銅になった。1800年、清水九兵衛が大町の本家の「清水屋敷」に移った。清水屋敷は現在の市役所の北側に位置し、大層大きな建物であった。明治中期に没落して能代の地を去った。
このことから、四国に道標が設置された1766年、清水九兵衛の屋号を継いだ人物が能代に存在したことを確定できる。この時期、阿仁銅山産の銅は、幕府が貿易決済に用いた長崎廻銅の総額の38%を占めていた。清水九兵衛は長崎廻銅を扱っていたのだから、大変な大豪商だったことが)分かる。
北前船は、2月に能代を出帆し日本海から瀬戸内を回って大阪に至るものと、4月に大阪を出帆し、瀬戸内、日本海を回って能代、さらにはえぞ地至るものがあった。いずれも瀬戸内は必ず通るし、帰り船には讃岐の庵治石(御影石)などが積み込まれた。清水九兵衛のような人間は、航海の安全祈願のため四国の金毘羅宮にもお参りしたであろう。そうなれば、お遍路についても十分理解できたろうし、道標を建立したとしても不思議ではない。

以上の調査結果から、道標を設置したのは能代の清水九兵衛に間違いないと、木村館長に報告した。木村館長や教育委員会には大変に喜んでいただいた上、其の内容は調査報告書として発表されたと連絡があった。

今年11月、清水九兵衛の道標を再訪し、四国で語り継がれている秋田の先人にあらためて思いをはせることができた。おへんろ交流サロンで聞いた話では、今もお遍路さんは東北の中では秋田県人が断然多いとのことだった。
四国お遍路は心が洗われ、生きる勇気が湧いくる体験である。皆様も機会があったらで掛けて欲しい。その際は、おへんろ交流サロンや清水九兵衛の道標にもお立ち寄っていただきたい。
 




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