石井護(巡堂)のメインブログ。1944生れ。秋田市のこざくらの丘でロハス生活「健康と環境を大切に、家族仲間と心豊かに暮らす」。サブで手彫り刻字の巡堂工房、丹田呼吸と坐禅、縄文文化研究、町内会なども発信。波動を高めた右脳人間として4コマを基本としたブログで、常識の壁を突き抜ける手助けとなる情報を発信しています。 右下の「ラベル」からもお入りください。
2010年11月30日火曜日
■瀬戸内を見下ろして空海を考える
香川県を旅行して雲辺寺と金毘羅さんから瀬戸内海を見て「空海」を考えました。
1、雲辺寺の頂上展望台より瀬戸内海を望む
香川県最初のお寺は雲辺寺です。標高1000mの展望台より。
2、たそがれの金毘羅さんから
金毘羅さんは夕方でした。空海が生まれたのは近くです。
3、華僑が日本をつくった
お遍路をすると同行二人ですから、空海さんが気になります。
副島隆彦さんの論文から引用です。
ここで古代の華僑とはどういう人々であったかについて、岡田説に従って簡単に説明する。
華僑たちは、中国と周辺の国々の間で交易を繰り返すうちに現地の良港に居留するようになり、やがて現地人の女と結婚して子供をつくる。ところがこの混血の二世たちは、中国人としての強烈な誇りを失わず、自分のことを中国人だと思い続ける。たとえ何代続いても自分たちを中国人だと規定し、現地人に同化しない。文化習俗もそのまま中国式である。ところが現地で生活する以上、話し言葉だけは現地語化していき、しだいに中国語ができなくなってくる。しかしそれでも現地語には文字や文献はないので、もっぱら中国文(漢文)の書物を読み、中国語を書く。
岡田説によれば、紀元前一世紀頃から日本に来るようになった華僑たちは、瀬戸内海沿岸に自分たちの「国」をたくさん建設した。この国というのは文字どおり口の形をしており、周囲をインディアン砦のように板や丸太で囲んで防御壁とし、自分たちはその中に居住した。現地人はそこに作物や産物を持って押し寄せ、交易を行ない、やがて華僑の砦を中心に現地人の村が生まれる。「魏志倭人伝」に記された倭国の二十九カ国はすべて、華僑との交易のために生まれたこうした集落である。邪馬台国の女王・卑弥呼が「三十余国を従え」というのは、私たちが思い込んでいるような西欧的な武力による支配服属のことではなく、中国船と交易をする際の倭人側の代表として大きな権限をもっていた代表者のことであって、周りの小国は、この邪馬台国に友好商社代表として交易の仲介をしてもらうことで恩恵をこうむっていた、という意味である。
4、邪馬台国の位置の比定図
こんな具合に瀬戸内には華僑がつくった都市があったのでしょうか。
四国にも当然のことながらあったでしょうから、空海も華僑とつながっていると考えれば、空海のなぜ(たとえば、なぜ中国語が堪能であったか、なぜ遣唐使に選ばれたか、なぜ2年で帰ってこれたのか・・・・)が見えてくるようです。
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