寺内地区会長会主催の歴史の勉強会がありました。
1、寺内・八橋地区の史跡探索マップ
講師は片岡一彦さん。観光案内人でもあります。
秋田市の寺内地区と八橋地区とは史跡探索では一体なのですね。
今回の八橋地区は、図の右側半分
2、印象に残ったお話
①八橋の日吉神社(ひえい神社と呼ぶ)、秋田安東の頃からのもので、天台宗系である。もとは笹岡にあり、飯島に移動し、最後に八橋地区に来た。中央政府が地元を従わせるためにつくられたもの。
4月のお祭りには、今も元あった所の「飯島衆」が担いでいる(曳いている)。
②寿量院(元の気象台のあと)も徳川家への情報提供のためつくられて、日光東照宮(天台宗)から常時50~60人のスパイがいた。
③江戸時代は、八橋にはなぜ蕎麦屋が多かったか? 処刑場にいく罪人にそばを食べさせた(?)
それは・・さておき。文人墨客の散策コースであったがためである・・・こちらがいいですね。
3、八橋 日吉神社とは
wikiでは八橋が載っていませんが
日吉神社
日吉神社は各地に存在する神社。「日吉」には「ひよし」「ひえ」の両訓がある。
- 北海道・東北地方
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日吉八幡神社概要:
日吉八幡神社は旧久保田城下の総鎮守であり、神社建築では秋田県内で随一です。
本殿(1797年)・拝殿安永七年(1778年)・舞殿・随神門・三重塔(1707年)・青銅鳥居は秋田県指定有形文化財です。朱塗りの木造三重の塔は、宝永4年(1707年)に豪商青木平兵衛が父の菩提供養のために建立したもので、秋田県内でここしかありません。
朱色の三重塔自体も他県と併せても珍しいかもしれません。随神門(神社山門)は元々は寿量院(敷地の南側に隣接し徳川家を祭っていた)にありましたが、明治3年に廃寺になったおり現在の場所に移築しました。
正面の鳥居から入ってくると少しわかりづらいかもしれません。正面からは神式、随神門からは仏式の伽藍配置になっていますので興味がある人には面白いかも知れません。又、随神門方向の道路から入ろうとしても、入り口が狭いのでやはりわかりづらいと思います。
日吉八幡神社の建物形式としてはは「権現造り」(日光東照宮(栃木県日光市)で見られる形式)で拝殿などのの彫刻がみごとなことから秋田の日光廟と呼んでいる人もいます。出来れば参拝だけでなく建物を1周して建築の彫刻を見てみるのもよいかもしれません。又、正面の道路から拝殿までの距離はあまり長くはありませんが、2つの鳥居と3つの橋が掛けられており、奥性を感じることが出来ます。2つの橋には「三猿」がほどこしてあり、ある種の結界を張っているようでした。本殿の屋根(写真だとわかりづらい)にも猿が鎮座しており、「日吉神社」系の守り神となっているのがよくわかります。
4、何が興味なのか
八橋日吉神社について
①お祭りの主催者が、今も地元でなく元の飯島衆が担いでいること。
これは寺内の古四王神社の祭典で、所在地の寺内地区の人々が主催しないで、少し離れた高野衆が主催していることのなぞ解きにつながるものです。
②ここにも、天台宗がでてきます。天台宗は田村麻呂から後の時代(100年くらい)に、武力のみでは蝦夷(えみし:我々の先祖)制圧ができないので、宗教の力も借りたことによります。その宗教とは天台宗だったのです。大きな寺院のほとんどが最初は天台宗で、のちに各宗派に分かれています。
だんだんだんだん 昔のベールが剥がれてくるようです。楽しいですね!
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