2009年2月10日火曜日

■二宮尊徳に学ぶセーフティネット

毎日リストラ・派遣切りのニュースが流れています。この困難な時代のセーフテイネットはどうあればいいのでしょうか。あの二宮金次郎のちの尊徳が行った対策が役立ちそうですので掲載します。
どうぞ世の為政者のみなさま参考にして、すぐにでも対策をお立て下さい。

1、二宮金次郎

二宮金次郎(尊徳)は江戸時代末期に農民の子とし
て生まれ、貧しい少年時代を過ごしました。彼は朝か
ら晩まで真面目に働いていましたが、本を読む時間が
あったらその分働け、というわけで家では勉強させて
もらえなかったのです。そこで銅像にあるように、薪を
背負っての道中に本を読んで勉強したのでした。



2、二宮尊徳


大人になった尊徳翁は、生涯を世の中のためにささげ、小田原藩家老家の財政再建
をはじめ、藩主大久保忠真候の依頼により分家宇津家の桜町領を復興させるなど、
自分の体験をもとにして大名旗本等の財政再建と領民救済、北関東から東北にかけ
る各藩の農村総合的復興事業(仕法)を行い素晴らしい成果をあげました。大飢饉
で農村が疲弊しきっていた当時、尊徳翁が仕法を手がけた村々は600ヶ村以上に上

ります。多くの農村や藩を貧困から救い、独自の思想と実
践主義で人々の幸福を追求し、数理、土木建築技術から
文学まであらゆる才能を発揮した世界に誇れる偉人です。
内村鑑三著『代表的日本人』の中でも、19世紀末、欧米
諸国に対して「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物
がいる」と苦難の時代を救った偉人として尊徳翁は紹介
されています。


3、二宮尊徳の飢饉救済法



第一四九夜 烏山の飢饉救済のやり方(二)
P212

天保七年(1836)に烏山公から頼まれて、
実施したましはこうなんだ。





 まず一村一村に論し、ひどく難儀している者たちのうち、力仕事ができる者とで
きない者との二つに分けて、力仕事のできない老幼、病身の者など千有余人を
、烏山城下の天性寺の禅堂や講堂や物置、その他の寺院と、新たに小屋を二
十棟建てて収容し、一人に白米一合ずつ、前ンに行った方法で、同年十二月一
日から翌年の五月五日まで救与し、その間飢民の気晴らしのために、藩士の武
術稽古をそこで行わせて、飢民に自由に見させ、ときどき空砲をならしたりして
滅入った気分を発散させ、病気の者は自宅に帰すか別に病室を設けて療養さ
せたりしたよ。五月五日に解散したときは、一人につき白米三升と銭五百文を
渡して帰宅させたんだ。
一方、力仕事のできる達者な者たちには、鍬一丁づつ渡してやって、荒れ地
一反歩について、起こし返し料三分二朱、田植え料二分二朱、合わせて一両
二分、ほかに肥料代一分を与えてから、一村ごとに働き者で幹部役をやれる
者を人選し、投票で高点の者にその世話役を申しつけ、荒れ地を起こし返して
植えつけさせたんだ。
こうして起こし返した田の面積が、ひと春の間に、五十八町九反歩の広さに
植え付けまできてしまったんだ。実に天から降ったように、地から湧いたように
、数十日のうちに荒地変じて水田となり、秋になれば、その実りはただちに貧民
たちの食料の足しになったんだよ。そのほか、
くつ、わらじ、縄などもたくさんできて、餓死者は一人も出ず、安穏に生活を続
けることができて、領主さまの仁政をありがたく肝に銘じて、お百姓の仕事にい
っそう勉励したんだよ。まことに喜ばしいことじゃないかね。(一九一)



4、現代のセーフテイネットを!!


二宮尊徳翁の飢饉救済法こそ今に求められるセーフテイネットそのものです。
日本全国各県、各市町村のリーダーが、それぞれの現状にふさわしい応用問題として取り組んで、この惨状を救ってくださることを願っております。

(お手伝いしたいものですが、私はもうその立場にないのですからねー)




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