2012年10月29日月曜日

◆臨済宗雲水の托鉢が行われました

大悲寺の坐禅会・秋の摂心会の一環で托鉢修行がありました。

1,ホーーーホーーー
5人の雲水さんが「ホーーーホーーー」と大きな声で歩きます
私が先導しています
2,今日は土曜日の午前中
なかいち・仲小路などイベントが準備中です
昨年は月曜日の午前中ですから人がいませんでした。

3,お布施
通町は毎年、個別のお店にお経{四弘誓願」を行います
このようにお布施をいただくお店が増えました!
4,2時間歩きました
寺町大悲寺から大町・中小路・秋田駅、秋田駅から中小路・通り町・大悲寺
と回って9時半から11時半まで2時間コース
阿部宗徹老師がお出迎えくださいました

【引用】
「ほーーー」ではありません。「法施(ほっせ)」という言葉を、長く伸ばして言っています。
つまりお金や食べ物など物を施す「財施(ざいせ)」をした者に対して、「仏法の教えを施す」という「法施」を僧侶が行うのです。その具体的作法が「読経」です。
 托鉢は、仏教に限らずインドの一般的宗教行為の一つで、インドでは修行者は自ら働いてはいけないとされ、信者からの施しのみで生きるとされます(ただし、これは気候が平穏で、食料などが豊富な豊かな国であるインドであるから行えることでしょう。仏教が支那・日本へと北伝するに従い、托鉢のみの生活は緩和されてきました)。
 で、他者にものを施す「布施」はインド語で「da<長音>na」を翻訳したものです。この「ダーナ」を漢字に音写して「檀那(だんな)」といいます。
 これは仏教以前からあるインドの基本的道徳律で、これには「持つ者が持たぬ者に施すのは当然の義務」「持たぬ者が持つ者より施しを受けるのは当然の権利」という考えが前提にあり、これによって富者は施すという行為によって善行を積む。貧者は施しを受けることにより、善行を行わせるという、日本人の常識とは異なります。
 そこで仏教もインドの伝統にならって「布施」を基本修行と取り入れますが、先の前提に従いながらも、何らかの対価を求めない(善行を積もう・来世の幸福を求めようなど)、義務的・虚栄心で行わない、自らの物に執着する心を捨てるために行うとしました。
 それは何かを「してやっている」という普段は自覚しない傲慢な心を気づかせるための、第一歩となる修行だからです。
 ですから托鉢では、我々が物(財)を施す布施に対して、教え(法)を施すという布施を、つまりでは互いが布施をしあうことになりますね。


0 件のコメント: