2012年3月5日月曜日

◆学問の神様「菅原道真」

毎日見ている「出光」のカレンダー、今月は菅原道真公です。


仙厓和尚の「渡唐天神」
秋田では天神様とは余り言いませんが、学問の神様「菅原神社」には行きます。
3月の出光のカレンダーには「渡唐天神」とあります。三笠山で神様になって、唐に渡って参禅したと解説がありました。でも・・・不思議な神様です!!



























【引用】
道真は、代々学者の家系に生まれ、長じて学者、文人それに政治家として卓越した能力を発揮した人物であった。 幼少の頃から文才に優れていたといい、18歳で律令制度の国家公務員試験の科目のひとつ「進士」の試験に合格、23歳でさらに上級の「秀才」に合格して文章(モンジョウ)博士となる。 以後、その才を遺憾なく発揮して順調に出世し、醍醐天皇の時に55歳で右大臣に上り詰めた。 ところが、そこで政治的な暗闘、学閥の抗争の黒い渦に巻き込まれてしまったのである。
 道真の異例の出世が、権力者藤原氏の鼻につき、延喜元年(901)藤原時平の讒言によって失脚し、北九州の太宰府へと左遷されてしまったのである。 都を去るとき、道真は
 「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
と詠んだ。 その道真の愛した梅が、あるじを慕って一夜にして京都から太宰府に飛んできたという”飛び梅”の伝説は有名である。 道真は、太宰府に赴任して2年後の延喜3年に無念の思いを残しつつ亡くなった。 延喜5年、門弟によってその墓所に立てられたのが太宰府天満宮である。













学者、文人という平和的なイメージを持つ菅原道真であるが、政治家でもあったことから死後の魂が怨念に支配されることになり、よく知られているように、神としてのデビューは日本でも最強レベルの恐ろしいパワーを発揮する怨霊としてであった。
 道真が太宰府で死んだ頃から、都では天変地異が続くようになり、まず道真を讒言した張本人の藤原時平が39歳で急死。 疫病がはやり、日照りが続き、20年後には醍醐天皇の皇太子が死亡、次の皇太子も数年後に亡くなり、人々はすべて菅公の怨霊の祟りとして恐れた。 きわめつけは、延長8年(930)に宮廷の紫宸殿に落雷があり、死傷者が多数出たことであった。 これにより、道真の怨霊は雷神と結びつけられることになった。 もともと教との北野の地には、農作物に雨の恵みをもたらす火雷天神という地主神が祀られていたことから、それが道真の怨霊と合体したものといわれる。 そこで怨霊の怒りを鎮めるため、天暦元年(947)にこの地に北野天満宮が創祀されたのである。 その後、永延元年(987)に勅祭(天皇が命じた特使による祭祀)が行われ、このときに正式に「北野天満宮大神」と称号されるようになった。













 この世に怨念を残して死に、のちに現世に祟りをなす死者の霊を御霊(ゴリョウ)という。 日本ではなら時代以降、この御霊が疫病などさまざまな災害をもたらすと考える風潮が盛んだった。 そのため御霊を神に祀り上げて、その怒りを鎮めようとして生まれたのが御霊信仰である。 道真も最初は、そうした御霊信仰のなかで神さまとしてスタートしたのである。
 同時に、雷神との結びつきという点では、雷=雨=農作物の成育という信仰から、農耕神としての性格も強く持っているといえる。 さらにいえば、日本の農耕信仰では、古くから北野の火雷天神のような天から降ってきた神を祀る天神社(古くから農耕民族にみられた天神信仰)が各地にあった。 道真の御霊が火雷天神と合体したことによって、やがて各地の天神社の祭神も道真=天神様とされるようになったのである。 















菅原道真もはじめは恐ろしい怨霊として、天満大自在天とか日本太政威徳天といったごつい名前で呼ばれたわけであるが、その意味するところは、数多くある御霊を支配し統御する偉大な神霊ということだ。 そういう神さまが、やがて学問の神として信仰されるようになった理由は、ひとえに御霊としての活動がだんだん静まったことによる。 平安時代から鎌倉初期に作られた「天神縁起」には、天神様を慈悲の神、正直の神として信仰する風潮がうかがえる。 そうやって怖さが薄れると人々の関心は、詩歌、学問に優れた道真の人物や業績といった面に向くようになった。 道真が空海や小野道風と並び”書道の三聖”といわれて崇められるようになったのもその時期からだろう。 こうしてできあがったのが、今日我々が親しんでいる天神様のイメージなのである。
 特に学問、文筆の神としての信仰が一般庶民の間にも広く浸透したのは、江戸初期に寺子屋が隆盛してからのことである。 江戸の寺子屋の様子を記した文献などには、子供たちが机を並べる教室に、必ず天神様の尊像が掲げられてあったことが記されている。 また、正月の初天神に行う天神講の行事は父兄参観の文化祭ともいえるような寺子屋最大のイベントだったし、毎月25日の縁日には近所の天神社へお参りすることが恒例になっていた。 今日の受験合格の御利益信仰の走りはこのへんに始まっているのだろう。
 海の神とか山の神とかとは違って天神様にはなんとなく親しみがある。 やはり人が神になったという事実が一番の要因であろう。 特定の人間が神になった例は、たとえば豊臣秀吉や徳川家康(東照権現)などの政治的実力者をはじめ数多いが、ドラマ性、霊的パワーにおいて道真が代表格である。
 キリスト教をはじめとする一神教では、人が神になるなどということは絶対にない。 創造主である神は唯一絶対であり、神とその創造物(自然や人間、ついでに天使までも)との間は隔絶されている。 だから、死んだ人の霊は神の導きで天国に行くということはあるが、あくまでも人間の霊のままであって、どんなに徳を積んだ人間でも、霊力の高い人間でも神になることはない。
 それに比べて日本では、もともと神と自然と人間の間は、ほとんど一体といっていいくらいに連続している。 神は自然そのものといえるし、人間も自然との調和のなかに生き、その意味では神々に囲まれて暮らしている。 だから、日本では昔から死者(先祖)の霊は生きている人の身近な自然のなかに住み、常に子孫の生活を見守るという形で存在すると考えられてきた。 そういう基本的な死生観があるから、人間が神になってもちっとも不自然に感じない。 そのあたり、特定の人間によって作り出されたまがいものの神と本質的に違うところであろう。
 もっとも、神になるにはそれなりに条件がある。 簡単にいってしまえば、非常に霊力の高い(と大多数の人が一致して認める)存在であることだ。 道真の怨霊も、生前の業績プラス怨霊としての強力な霊的パワーを都の人々が認めたことによって神となったのである。 さらに、日本人は悲劇的な最期あるいは不遇の死を迎えた英雄を好む性向がある。 讒言によって都から追われて悲憤のうちに異郷に果て、その死後に怨霊となって復讐を果たし、ついには神になる。 そういう日本人好みのストーリーが、天神様=菅原道真の親しみやすさの背景にあるともいえよう。 権力によって無理矢理に神になった徳川家康の日光東照宮が、単なる猿神社になってしまった理由もそこにあるのだろう。





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