2010年8月3日火曜日

■徐福伝説フォーラムに行きました



秦の始皇帝の命で、不老不死の薬草を求めて日本に渡来したという伝説の徐福のフォーラムが男鹿市でありました。

1、さきがけ新聞




2、池上さん
頭が我が町内にも家がある渡部市長さんです




















池上さんは、中国にも、韓国にも、日本にもたくさんの徐福伝説地があることを写真で説明くださいました。
でも、・・・・私の求めるところではありませんでした。
あの誇り高い中国人が、しかも政府の要人が徐福を崇めることがあり得ようがないと考えるからです。もし仮に本当だとしたら、青龍寺と同じ日本人の観光客を呼ぶためのものでしょう。
日本の伝説地も・・・そうなのでしょうか。


3、徐福伝説とは


から2200年前,日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき,秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人物がいました。実は徐福は長い間中国でも伝説上の人物でした。しかし,1982年,江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり,実在した人物だとされています。そして,徐阜村には石碑が建てられました。驚くことに,その村には現在も徐福の子孫が住んでいます。代々,先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったことが書かれていました。

は始皇帝に,はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました(司馬遷の『史記』がもとになっている)。この願いが叶い,莫大な資金を費やして一度旅立ちますが,得るものがなくて帰国しました。何もなかったとは報告が出来ず,この時は「鯨に阻まれてたどり着けませんでした(台風を大鯨にたとえたのかもしれない)と始皇帝に報告しました。そこで始皇帝は大勢の技術者や若者を伴って再度船出することを許可しました。

い男女ら3000人を伴って大船団で再び旅立つことになりました。そして,何日もの航海の末にどこかの島に到達しました。実際,徐福がどこにたどり着いたかは不明ですが,「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」と中国の歴史書に書かれています。この「平原広沢」は日本であるともいわれています。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し,その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのです。もともと徐福は不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなかったかもしれません。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき,東方の島,新たな地への脱出を考えていたかもしれません。徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれないのです。

国には,徐福=神武天皇とする説もあって興味深いものです。徐福は中国を出るとき,稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われます。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが,実は徐福が伝えたのではないかとも思え,徐福が日本の国つくりに深く関わる人物にも見えてくるのです。

本各地に徐福伝説は存在します。実際はどこにたどり着き,どこに居住し,どこに行ったかはわかりません。もちろん,徐福という人物の存在を証明する物は何もありません。しかし,徐福の伝説地はあまりに多いのです。徐福という名は歴史の教科書にも登場しないので日本人にはなじみがありません。実在したかどうかもわからない人物を重要視しないのは当然かもしれない。今から2000年以上も前のことなのに,江戸時代にあったことかと思ってしまうような話として伝わっているものもあります。語り継がれる間に,背景となる時代が混乱してしまうのです。でも,それでも許せてしまうのは,歴史的事実よりも歴史ロマンとして大切にしたい気持ちもあるからかもしれません。徐福は確かにいたのです。それでいいのです。数多い伝説地の中で,佐賀県,鹿児島県,宮崎県,三重県熊野市,和歌山県新宮市,山梨県富士吉田市,京都府与謝郡,愛知県などを訪ねてみました。


4、徐福は日本の華僑の原点か
池上さんのおはなしでは、徐福の末裔がいてその名前は「秦」さんだといいます。秦さんといえば、下記の岡田教授の論と結びつきます。


岡田東京外国語大学教授の本からです

当時の韓半島には、日本と同じでまだ国家の形成はない。だから朝鮮人や韓国人の渡来という考えはおかしい。 渡来人 ( 帰化人 )とすべきは、紀元一世紀前後(漢の帝国の時代 ) ごろから日本にやって来るようになった古代中国人たちのことである。
彼ら渡来人=中国人のことを正確に言えば、それは、「華僑」( overseas Chinese オーバーシーズ・チャイニーズ ) の人々のことである。
だから 「属国」としての日本の歴史は、丁度、今から2000年前の、紀元前後の頃に栄えた漢帝国の時代に始まる。この時期に、中国から商人たちが日本を訪れるようになり、現地人である倭人と交易を始めている。この中国人の商人たちはおそらく、日本に鉄鉱石や銅鉱石あるいは ひすい、めのう などの貴石の原料を交易船を仕立てて頻繁に買い求めに来たのだろう。毛皮商人でもあったかもしれない。人間が海外にまで渡ってゆく動機は、戦乱に追われて移動してゆく、というこれまでのイメージで考えるのではなくて、やはり商業活動=利益行動としての貿易を中心に考えなければならないはずだ。ユダヤ人という商業民族が新天地に、他の誰よりも早く入って行くのだが、それもほとんどは、原住民との毛皮交易ではなかっただろうか。
海外にまで進出した中国商人たちは十九世紀以降、東アジア各国 ( あるいは世界各地 )で 「 華僑 」 と呼ばれることになる人々の祖型である。そして彼ら 華僑 が、七世紀に日本という国家を建国させる原動力になっていく。




*徐福が華僑の原点で、それから徐々に華僑が入ってきて、そして聖徳太子の時代というストーリーもありますね。

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