1、中央構造線とコースについて
研修は諏訪市から始まります。諏訪市に麺する諏訪湖はとても有名な湖ですが、実はこの湖の下では日本列島を東西に貫く中央構造線と、日本列島を南北に貫く糸魚川静岡構造線という2大断層が交差しています。この諏訪湖から国道152号(秋葉街道)を南下、杖突峠、高遠、ゼロ磁場の分杭峠、鹿塩温泉、熊野神社、遠山郷に至るコースでした。
2、中央構造線はどうしてできたか
新生代第三紀漸新世の終わり頃にあたる2500万年前頃(鮎川層ができるより大分前)から、大陸の縁辺部が裂け始めました。大陸縁辺部が裂けてくるという現象は、ヒトの一生の間にさけてしまうというような速さではないので、突然海が入ってくる訳ではありません。裂け始めた頃は、さけているところが、はじめは広い範囲にわたって細長い陥没した場所を作ります。大陸の中で陥没した場所ができると、そこは、周りよりも低い場所になるため、細長い湖や、川で結ばれたいくつかの湖といった水系を作ります。東アジアの淡水魚のふるさとという展示では、ここでできた水系によって、現在の東アジア特有の淡水魚が生まれたとされています。現在の地球上でいうと、アフリカの大地溝帯の様な場所であったと考えられます。
地溝帯は徐々に広がり、第三紀中新世の中頃にあたる1900万年前頃には、海が入ってくることによって日本列島となる部分が大陸から引き離されていきます。このころの様子は、現在の地球上でいうと、紅海のような感じであったと思われます。この頃から、現在の東北にあたる地域は陸域ではなく、ほとんどが海域になっています。
現在の日本列島は弓なりに曲がっていますが、地溝帯が広がり、海が入ってきた頃は、まだ折れ曲がっていませんでした。地溝帯に海が入り、その後の1700万年前頃に日本海の海底に玄武岩質の溶岩が貫入してくることによって、日本海はさらに拡大します。このとき海底は一様に拡大せず、今の中部地域を中心として日本列島は逆“く”の字に曲がります。この折れ曲がりは約1500万年前の完了まで続きましたが、日本海の拡大終了時には、現在の折れ曲がりよりも曲がっていたと考えられています。また、今の東北に当たる部分は海域にあり、西南日本は陸域で、一部海域にあるという状態だったと思われます。鮎川層は、ちょうどこの日本海の拡大が進行中の海でたまった地層からなります。
3、秋葉街道は武田信玄の軍用路でもあった
信州遠山郷秘境の旅より
①武田信玄が切り開いた軍用路
①武田信玄が切り開いた軍用路
元亀三年(1572)、信玄は遠江・三河を攻略するために軍を三方に分け、自身は小川路峠から青崩峠を越えて天野氏の犬居城に入りました。
甲府から浜松へのルートは、富士川沿いに南下する道や、伊那から新野峠を越えて後の三州街道を下る道も考えられます。
信玄があえて青崩峠越えを選んだのは、道沿いに大きな勢力がなく、遠山氏・奥山氏・天野氏を押さえれば容易に通過できるメリットがあったからでしょう。
信玄は交通路があったから進撃するのではなく、進撃のためにみずから道を押し広げたのです。
江戸時代になって秋葉街道や中馬街道が信仰路・通商路として栄えた背景には、こうした戦国大名たちの努力があるのです。
甲府から浜松へのルートは、富士川沿いに南下する道や、伊那から新野峠を越えて後の三州街道を下る道も考えられます。
信玄があえて青崩峠越えを選んだのは、道沿いに大きな勢力がなく、遠山氏・奥山氏・天野氏を押さえれば容易に通過できるメリットがあったからでしょう。
信玄は交通路があったから進撃するのではなく、進撃のためにみずから道を押し広げたのです。
江戸時代になって秋葉街道や中馬街道が信仰路・通商路として栄えた背景には、こうした戦国大名たちの努力があるのです。
②塩の道でもあった
③平家の逃亡、南北朝の南朝の逃亡、豊臣家の逃亡コース
4、中央構造線から新しい時代が始まった
中央構造線上には阿蘇、石鎚山、高野山、伊勢、諏訪湖、鹿島などと歴史上の重要な拠点が存在する。激動の磁極と日本の未来にとって重要な場所であり、ここに住む人々との交流を通して、これからの生き方を学ぶことが有意義であった。
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