2011年2月11日金曜日

■「いしぶみ」と「石のつぶて」について

壺の碑・・・多賀城にある石碑ですが、どうもあやしいものと調べ続けています。八郎太郎伝説を調べていたら「石のつぶて」にたどりつきました。解決の糸口をみつけた!!

1、荒俣宏の「歌枕」謎ときの旅による碑の変遷
荒俣宏さんの本から「壺の碑」の変遷をまとめました
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①「いしふみ」は元来「ツブテ」、小石で通信した。
②和歌の時代:石文は「想いを相手に伝える」手段
新古今集:いしふみは「石碑」。歌枕「壺の碑」慈円が      
④西行は恋文から「蝦夷地の奥」という歌枕に。
⑤京で日本の境にあり「日本中央と奇妙な遺蹟」
⑥水戸光圀が大日本史編纂で碑の発掘を決心
⑦多賀城で発見された碑を光圀が「碑と認定した」
⑧昭和24年、南部で「日本中央」碑が発見された。

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・「いしぶみ」の最初は「つぶて」だったのです!!

2、「つぶて」とは何か
上記①によれば「いしぶみ」は元来「ツブテ」、小石で通信した。












つぶてとは - 漢字表記は「」または「飛礫」。 投げつける小石。また、投げつける小さなもの。
3、全国各地に「つぶて石」が




山形県











石の大きさは3mはあるだろうか。結構大きい。
河床がむき出しになった、比較的岸に近いところ
にあって歩いてそばまでいける。
付近に遊歩道が整備されていて、河床の奇岩を見て
歩けるようになっていた。

以下 石碑に書かれていた由来です。

鎌倉時代初期の物語。勇壮無比の坂東武朝比奈三郎義秀
が、朝日岳の頂上から左手で投げた石が山々を軽々と
越えてこの川原に落ちた。
大きい手形はその時のものだという。
余りにも飛ばないので右手で投げたら白鷹山を越えて
山形市の礫石(つぶていし)まで飛んだという。
山形市の礫石がどこにあるか知りませんが


天童市のジャガラモガラに行く入り口近くの道路の
路肩に礫石と書いた看板と石があります。
大きさは1m無いくらい。

4、鹿角にも「石のつぶて」がありました
こざくらの丘動画文庫「八郎太郎伝説」の一コマです。
「八郎太郎が十和田湖を追われ、鹿角の男神・女神のところを堰き止めて湖を作ろうとしたとき、鹿角の四十二人の神々は集宮に集まって評議した。「石のつぶて」を使って八郎太郎にぶつけ瑠事の決めた・・・・」
「石のつぶて」をまたの名として「神のつぶて」とも言ったとあります。
筆者も昭和42年に鹿角に転勤となり、毎日この集宮地区を通っていました、図のような巨石がたくさんありました。田の耕地整理が行われて無くなりましたが。




















「いしぶみ」の最初の「つぶて」までたどりつきました。これからまた本当の「いしぶみ」とはなにかさらに探訪して楽しみます!!ご期待ください。

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