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2012年9月10日月曜日

◆高清水の岡:地理調査スタート

寺内地区市民憲章推進協議会として高清水の岡の地理調査がスタートしました。



1,9月8日現地調査スタート

地質調査の先生方です。空素沼の調査の様子。
いよいよスタートしました。




















2,高清水は史跡の宝庫

昨年度調査した寺内地区史跡探訪マップです。最高の高さ50mの丘陵地にこんなにたくさんの遺跡があります。空素沼とは下図の上部やや右の水色部分です。

























3,高い場所で清水が湧くから「高清水」

高清水の岡の断面図です。空素沼がとんでもない高いところにあることがわかります。
この日照りでも水が枯れていません。湧きだしているのです。
調査の先生とは、元秋田大学の先生と、元地質会社の所長さんです。最高のメンバーにボランティアでお願いして、高清水の原理の解明に取り組んでいるのです!!




















4,こんなことが分かります

空素沼の隣、秋田城跡には平安の井戸や古代沼があります。となりに鵜ノ木地区建物群があ、迎賓館があり(渤海使節団)、何と水洗トイレまであった。この高台に、水が湧き出ていたから住居があった。このようにエリア毎に昔から住み続けたことが、地下水との関係で読み解けることになります!! うれしいですね。

2012年2月17日金曜日

■縄文時代は文化が高かった!

縄文時代は裸のハナタラシと思っていましたが・・・どっこい、文化が高かった!


1,縄文時代の文化曲線
【池田満さんの「ホツマ縄文日本のたから」より】
初代クニトコタチからアマテルカミ(天照大御神)までの、文化曲線(池田氏のイメージ)は最も高い時期であった。その後、神武天皇の頃から下がって、外国との交流が盛んになってから下がりっぱなしである。
























2,建国の頃
建国の初めにあっては、栗などの栽培を主としていました。木の実の多く採れる樹木を栽培し、さかなや獣を捕ることで人々が生活していました。そこで、多くの木の実がとれる記の品種を向上させ、これを人々に教えてまわるのがひとつの文化伝播です。また、穴居に人々が生活していたのを、住居をつくり、生活向上を計ったことが、もうひとつの改革でした。




















3,稲作の普及
次の大きな変化は、四代目アマカミのウビチニ・スビチニの時代から起こります。
稲作が一般に普及し始めたのです(弥生からではありませんよ!)。稲作と共に結婚の制度も一般に普及しました。
















4,新田開発のイザナギ・イザナミ
七代目アマカミのイザナギ・イザナミは、遂行稲作の新田開発を盛んにして国を再建させ、同時に日本語の整理統一を行います。八代目のアマテルカミ(天照大御神)は、アマカミを補佐する臣の役目を明確に決め、制度を整理しました。また稲の新品種の普及を行い、暦の再編をし、三種の神器が作られました。



2012年1月17日火曜日

■パルテノン神殿の柱はなぜ倒れない?

黄金分割で学んだパルテノン神殿の柱は高いが、どんな構造なのか?



1,パルテノン神殿
ご存知のパルテノン神殿です。白線が黄金分割のモデルとして解析されている線です。今回はこの柱についてです。(動画http://www.youtube.com/watch?v=-U38vH1Tpkw&feature=g-upl&context=G206466aAUAAAAAAATAA

、パルテノン神殿の基盤は長さ69.5m、幅30.9mである。外周にあるドーリス式円柱は直径1.9m、高さ10.4mであり、柱の合計は外周に46本、内部に19本ある。
パルテノン神殿に使われる石材は、円柱のドラム1個当たりが5-10トン、梁材は15トン程度の重量であった。これらは高い加工が施され、例えば円柱ドラムの接合面にある凸凹は1/20mm以下に抑えられ、面接合の密着精度は1/100mm以下であり、エジプトのピラミッドのように調整用モルタルは使われていない。


















2,円柱のドラム積み上げ
円柱の1ブロック(ドラムというらしい)の直径が1,9m 下図を見ると10mの高さに10ドラムくらいでしょうか。重さが5~10t。これがどうして座屈しないかが疑問でした。日本ならすぐ筋交いがなされているでしょうが!!









3,これが秘密でした
テレビ(文明クルーズ)で解明してくれました!!
円柱の中に四角な木片が入るのです、これで上下を繋いでいるのです。
2,400年前の木片が教えてくれたものだようです。
















4,更に木の円柱が
この木片の中に、更に木の円柱が入るのです。こんなに小さいものですが、ぴったりと入る精度です。
直径2mの円柱の接合面の密着精度が可能なら、この木片による縦の補強精度も精密なものだったのでしょう。
昔の巨石文化は素晴らしいものですね!!

















*このギリシャが国家破綻寸前ですから・・・歴史ですねーー!!








2011年12月8日木曜日

■作品「越前谷人形工房」看板

大作作品看板が出来ました!



1、看板「越前谷人形工房」

本来は上に掲げるものですが、文化祭の折にさりげなく玄関に置いたものです。
ケヤキ製:2,200×40×25mm
大きなケヤキにしては薄い作品ですが、古い板で老舗の看板としてはいい色具合です。















2、製作途中の作品

越前谷さんは人形屋さんから工房とすることになりました。
まだ色が入っていません。



















3、越前谷人形屋さん
秋田市土崎の曳山祭りの人形は全部越前谷人形屋さん(これまで)が作っています。
越前谷さんは4代目だそうです、100年くらいですか。



















4、曳山祭りは400年


(WIKIより)
1602年慶長7年)、佐竹氏が湊城入部[13]。その2年後、久保田城に移転[13]。この際、武士官僚・寺社、住民等も土崎から久保田城下へ移転し、土崎の人口はいったん減少し、経済活動をする町人が残る[13]
北前船などの西回り航路の開拓で、貿易港として復興したことをきっかけに、港の鎮守神を作ろうと、当時、久保田藩の御用商人として土崎の地に来ていた川口惣治郎の[要出典]川口家の氏神の神明堂を湊城跡地に土崎神明社として1620年元和6年)に建造した[14]
1625年寛永2年)、湊に下ってくる船乗り達が神輿を寄進し、この年の祭礼で神輿神幸[13]
この写真は青森のねぶたです。青森の場合は田村麻呂と大嶽丸が出てきます。
秋田土崎の曳山人形は、人形師越前谷さんのお話では、田村麻呂信仰とは特に関係がないようだという事です。しかしながら、越前谷さんは約100年の歴史であり、その前別の人形師さんが受け継いで300年もの歴史があるのです。
私の推測ですが、青森・津軽のねぶたと同じく田村麻呂伝説の一環として、田村麻呂と大嶽丸を祭ったものだと信じています。





2011年11月9日水曜日

■クロマンタの秋

クロマンタの上り路で秋を見つけてきました!



1、今は貴重な松の並木

県内は松くい被害で松が貴重となりました!





















2、落ち葉

落ち葉を踏んで歩くのは気持ちいいいものです。まもなくクロマンタ頂上です!!




















3、もみじ

八合目あたりの林の中の紅葉がまだ残っていました!




















4、こちらも

落ち葉と紅葉・・・そして高い波動・・・心を洗ってきました。






2011年11月6日日曜日

■田村麻呂伝説と寺内の史跡

坂上田村麻呂は秋田に来たとか来ないとか・・・まずは伝説を!



1、坂上田村麻呂とは
延暦12年  793年  35歳  征東副使が征夷副使に改称
延暦13年  794年  37歳  三回目の征討軍の副使(実質リーダー)として10万人の軍勢で現地に行った。
延暦15年  796年  39歳  陸奥出羽按察使、陸奥守を兼ね
延暦16年  797年  40歳  征夷大将軍になった。
延暦19年  800年  43歳  諸国に移配する夷俘を検校した。
延暦20年  801年  44歳  四回目の征討軍、征夷代将軍として四万人の軍勢で現地に行った。
延暦21年  802年  45歳  阿弖利為
  母礼500余人の京都へ


2、田村麻呂の秋田へのコース

田村麻呂は陸奥から雄勝城、神宮寺、女米木と大嶽丸を追って、ついに寺内までやってきました。

3、関連する寺内の遺蹟

①古四王神社で祈願して ②将軍野に陣地を張って ③幣切山で祈って ④鬼敗坂で負かして
⑤鶴が池で首を落とし、⑥幕洗川で太刀と幕を洗い 鶴が池で祝いの鶴を放って ⑦田村神社で称えた
こんなストーリーですが・・・ 




















4、大嶽丸を破った所

菅江真澄が書いた大嶽丸が図です。
ここにはこんな感じです!
詳細は「東北縄文文化研究会」の方に載せます。



2011年8月19日金曜日

■大名の大名家・佐竹候

意外と地元で知らない、そして誇りとしていない、わが秋田の佐竹候のこと!



1、超名門の佐竹候

清和天皇(平安時代850年頃)、清和源氏の正統、新羅三郎(源義光)を祖先とする名門である。
佐竹候ほど、古くかつ由緒ある祖先をもち、そして明治維新まで連綿と続いた大名は、外に例がない。(「佐竹氏と久保田城 渡部景一」より



















2、佐竹候の盛衰

名門でも、737年も長く続けばいろいろあります。「驕る平家も久しからずや! 必ず栄枯盛衰があります。佐竹候はトップではありませんから、どちらかにつかなければなりません。トップの盛衰に合わせて、右や左に行かなければなりません!!
豊臣家の天下の時は豊臣のもとで、水戸の佐竹で54万石・・・絶頂でした!!
でも、関ヶ原には悩みぬきました・・・時既に遅し・・・・
秋田20万石に移封(左遷)でした。




















3、常陸の佐竹候

常陸太田城に470年間もいたのです!!
水戸城に12年間いました・・・水戸光圀(黄門様)がその少し後ですね。
水戸にいたのですよ・・・絶頂期54万石です!!
常陸太田城Hあ山城で発展性がない、中心部で丘の上の平山城でした・・・。





















4、秋田の城はどこ

佐竹候は1602年から秋田に来ました、明治維新まで。
さてお城はどこにしようか、秋田か横手か。秋田は平山城で雄物川にも近い。横手は山城で防御はしやすい。父の義重派が横手、義宣侯派が秋田。もちろん秋田と決まりました。
秋田でのお城と旭川掘り替えから町わりまでの都市計画は、中国思想を取り入れた四神相応の都市計画でした。(こちらは別途に)





















2011年2月11日金曜日

■「いしぶみ」と「石のつぶて」について

壺の碑・・・多賀城にある石碑ですが、どうもあやしいものと調べ続けています。八郎太郎伝説を調べていたら「石のつぶて」にたどりつきました。解決の糸口をみつけた!!

1、荒俣宏の「歌枕」謎ときの旅による碑の変遷
荒俣宏さんの本から「壺の碑」の変遷をまとめました
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①「いしふみ」は元来「ツブテ」、小石で通信した。
②和歌の時代:石文は「想いを相手に伝える」手段
新古今集:いしふみは「石碑」。歌枕「壺の碑」慈円が      
④西行は恋文から「蝦夷地の奥」という歌枕に。
⑤京で日本の境にあり「日本中央と奇妙な遺蹟」
⑥水戸光圀が大日本史編纂で碑の発掘を決心
⑦多賀城で発見された碑を光圀が「碑と認定した」
⑧昭和24年、南部で「日本中央」碑が発見された。

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・「いしぶみ」の最初は「つぶて」だったのです!!

2、「つぶて」とは何か
上記①によれば「いしぶみ」は元来「ツブテ」、小石で通信した。












つぶてとは - 漢字表記は「」または「飛礫」。 投げつける小石。また、投げつける小さなもの。
3、全国各地に「つぶて石」が




山形県











石の大きさは3mはあるだろうか。結構大きい。
河床がむき出しになった、比較的岸に近いところ
にあって歩いてそばまでいける。
付近に遊歩道が整備されていて、河床の奇岩を見て
歩けるようになっていた。

以下 石碑に書かれていた由来です。

鎌倉時代初期の物語。勇壮無比の坂東武朝比奈三郎義秀
が、朝日岳の頂上から左手で投げた石が山々を軽々と
越えてこの川原に落ちた。
大きい手形はその時のものだという。
余りにも飛ばないので右手で投げたら白鷹山を越えて
山形市の礫石(つぶていし)まで飛んだという。
山形市の礫石がどこにあるか知りませんが


天童市のジャガラモガラに行く入り口近くの道路の
路肩に礫石と書いた看板と石があります。
大きさは1m無いくらい。

4、鹿角にも「石のつぶて」がありました
こざくらの丘動画文庫「八郎太郎伝説」の一コマです。
「八郎太郎が十和田湖を追われ、鹿角の男神・女神のところを堰き止めて湖を作ろうとしたとき、鹿角の四十二人の神々は集宮に集まって評議した。「石のつぶて」を使って八郎太郎にぶつけ瑠事の決めた・・・・」
「石のつぶて」をまたの名として「神のつぶて」とも言ったとあります。
筆者も昭和42年に鹿角に転勤となり、毎日この集宮地区を通っていました、図のような巨石がたくさんありました。田の耕地整理が行われて無くなりましたが。




















「いしぶみ」の最初の「つぶて」までたどりつきました。これからまた本当の「いしぶみ」とはなにかさらに探訪して楽しみます!!ご期待ください。

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2011年2月4日金曜日

■八郎太郎物語に取り組む

縄文の歴史に取り組むには十和田湖が重要であり、「八郎太郎物語」にとりくんでいます!

1、八郎太郎物語に取り組み
とりあえずパワーポイントで「八郎太郎物語(三湖伝説)」をまとめています。





















2、民話は「むかしむかし・・」
民話は「昔むかし あるところに・・・」とはじまるのですが、「いつ、どこで」と特定されてできあがっているおはなしもあるのですね。
「八郎太郎」では、出だしは何千年も前のこととなっていますが、南祖坊との争うの所では「千年以上・・」に変わっています。


























3、民話、昔話の分類
やはりそれぞれに違いがあるようです。


昔話、伝説、世間話の違いを表にすると以下のとおりとなる。
種類語られる人物・時・場所語られ方語り・話のかたち
昔話不特定事実かどうかわからない(おそらく事実ではない)あり
伝説特定少しは事実かもしれない(少しは信じてほしい)なし
世間話特定事実である(信じてほしい)なし

*伝説だから、いつどこが特定されるのですね!!

4、お話の内容も皆違いがあります
三湖物語ともいわれますから、十和田湖、八郎潟、田沢湖の三つなのですが、青森県にも南祖坊が青森出身ですから伝説があります。
十和田湖では鹿角市でのお話があり、
八郎潟では地元で八郎潟中心のお話があり
田沢湖では辰子姫のお話があります。
是が皆連関していて壮大なお話です。

















*ストーンサークルの研究のためには十和田湖の噴火を調べなければなりませんから・・・

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2010年11月2日火曜日

■イランの八角形



先日東京に行ったとき立ち寄った国立博物館。仮設(改装中)の東洋館で珍しいものを発見してきました。

1、古代イランにも八角形
古代以南南部で発見された竿頭飾りだそうです。前13~11世紀んもの。
私が興味を持ったのは、全体の形や解説ではありません。飾りの中に3ケの花弁模様があります。




































2、八角形です














3、私のお守りと同じ

どうですか同じでしょう! これは日本の昔からある「八咫の鏡(やたのかがみ)」からデザインしたものです。「八の鏡咫」「大八洲」「八重垣」「八尺迩の勾玉」など、八を用いた重要な言葉が多いのです。














4、古代の神々のこと

日本語の四十八音の神々は、天上高天原にあるサゴクシロの宮に鎮まっていると『ホツマツタエ』には書かれています。四十八音の神々はそれぞれ配置が定まっているという。

中心にはアメミオヤ神が鎮まり、その周りをトホカミエヒタメ八神が取り巻いている。その外に他の三十二音の神々が位置している。

そして、八角を形成するトホカミエヒタメの神々が生命誕生のとき、すべてを結びつける魂の緒を降すのである。

古来尊ばれる八という数は、生と死にかかわる数だったのである。

日本だけでなく、イランにも、そしてバビロンにも、ローマ法王庁にも、中国にも、仏教のマークも八角形・・・・これはどういうことでしょうか。

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2010年5月20日木曜日

■刻字「イヌイットの絵」

ベランダのお茶のみテーブルの脚部分に「イヌイットの絵」を彫りました。

1、お茶のみテーブル
ベランダのセットです。奥が古いウスを利用したイス。テーブルは今年作成のケヤキ糸目加工のテーブル。その下がヒバの塊の脚です。日焼け対策のため黒く塗装しました。そこに彫ったものです。




















2、イヌイットの絵
解説文は
この精神は、イヌイットによってそれを達成後に描かれた。
それが慰めの精神ですが、いるような不安
外観は、それが怖くで走った訪問人間。 (グーグルの訳ですが)





















3、イヌイットとは


カナダ・イヌイット
西はロシア・チュコトカ半島の沿岸部からアラスカ、カナダをへてグリーンランドに至る広大な極北地域には、約15万人あまりの先住民が住んでいます。彼らはかつて「エスキモー」と呼ばれていました。エスキモーとは、クリー・インディアンやオジブワ・インディアンの言葉で「生肉を食らう輩」を意味しています。それは蔑称であると考えられるため、現在のカナダでは、民族名称として「イヌイット」が使われています。イヌイットとは彼らの言葉で「人々」や「人間」を意味します。現在のカナダには約4万5千人のイヌイットが住んでいま
す。




4、イヌイットアートの評価

仕事の関係でトロントに行く機会があったので、またもや仕事の合間を縫って、オンタリオ美術館に駆け込む。お目当てはもちろんイヌイットの作品。ネイティブ・アメリカンアートに似ているのかな、なんて漠然と予想していったんですが、予想と全く違うすごい作品が並んでいて圧倒される。コンテンポラリーに通じる表現なのに、そこに描かれているのは、圧倒的に人と動物が境界なく相互浸透しあうスピリチャルな世界。その表現力の強さと、そこに表現されている世界のインパクトにただただ感動する。
例えば、上に掲げた作品。1950年生まれのDavid Ruben Piqtoukunと言う作家のShamanという89年の作品。制作された年代で言えばもちろんコンテンポラリーに属するし、デフォルメの仕方なんかは本当に現代の彫刻作品なんだけど、そこに描かれているのは、シャーマンが、トランス状態に入ってアザラシに変容した瞬間。人間であるシャーマンがアザラシとなって海中に飛び込み、自在に海を移動する・・・人と動物の境界が曖昧で、自由に行き来でき、人間が動物の力を借りて超自然的な力を獲得することが出来ると素朴に信じられる世界。キリスト教が導入されてから200年以上が経過し、移動がトナカイの橇ではなくスノウ・モービルとなった現代のイヌイット社会に残るこうした神話的世界の豊饒さがうれしい。


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