菅江真澄の「水の面影」現代語訳に当たって、内田武志さんの解説(2)
「水の面影」解説 菅江真澄全集著者 内田武志
1 文化九(1812)年の著
「古老たちから尋ねながら、現地踏査した」
文化八(一八一一)年の夏から久保田(秋田市)に居住するようになった真澄は、佐竹藩校明徳館の助教那珂通博の推輓を受けて、藩内六郡の地誌を編むことになった。
《みずのおもかげ》には、「寺うち、矢ばせなどの村々のふることを、としたかき処人にたつねて書きたるふみなり」とある。しかし現在知られている《みずのおもかげ》は上巻だけでそれには年次がない。某年の二、三月ごろ、今の秋田市寺内から八橋方面の旧跡を探遊した記録とみられるが、文化九年(一八一二)年七月の日記《つきのおろちね》の冒頭には、次のように言っているから、同じ年の探訪であることがわかる。「この春より、このあたりを尋ねわたりて、『水の面影』という冊子に寺内山のふるあとをたどりて書いてあつめ・・・」
そこの名所十八箇所の由来は当時すでに知るひとも稀になっていたから、真澄は里の故老たちに尋ねながら、実地踏査をした。その記録を《みずのおもかげ》と表題したのである。
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