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2013年8月3日土曜日

■雑念妄念を消す方法

心はコロコロ、常に雑念妄念が襲いかかります・・こうすればいい
残念ながら坐禅のからの情報ではありません。
調和道丹田呼吸法の2013・8の会報からです。
丹田呼吸談義「調和道の奥を訪ねて(2)」中田邦夫さんから



1,雑念妄念とは

雑念妄念を一つの言葉『雑念』で表現していますが、佐藤先生の解説によれば雑念と妄念を分けて、『雑念』は外界の刺激により引き起こされる心の擾乱であり、『妄念』とは内界(内心)から湧き起こり心を擾乱させる念であるとしています。


2,雑念には数息観

そして、これらの退治には、『雑念には数息観』を、『妄念には随息観』を
用いるのだとしています。
数息観は臨済禅でも用いることがぁるようですが、一から十までの数を波浪息の
長息の吐く息に合わせて唱えます。
数え方は『トーツ、ターッ、ミ、― ッ、ョーッ、イッーッ、ムーツ、ナナーツ、ヤーツ、ココノーッ、トー』を繰り返しているうちに雑念を離れていくといぅことです。

(註) ハヒフヘホは腹から空気が漏れる感じがするので、ヒトーッはトーッ、フターッは
ターツと呼ぶのが昔からの習慣です。また十以上の数を数えるのは頭を使うので十までし
か数えず、一に戻ります。数が分からなくなったときも一に戻ります。


3,随息観とは

随息観は吐く息に心を集中することによって、あるいは吐く息に従っていれば妄念を離
れていくということです。波浪息の長息において吐くときに『ウーム』と声に出して意識
を集中していくので、中級波浪息の長息を別名『ウームの呼吸』と呼ぶことがぁります。

4,雑念妄念が消えるわけではない
私には道祖のように徹底的に雑念妄念を排除する事は出来ません。人間である限り煩悩
があるのは当たり前、雑念妄念もあるのは当たり前だと思っているからです。ただそれに
執着しないようにしているだけです。数息によっても雑念妄念が消えるわけではなく、全く気にならないようになるだけです。

『意馬心猿』という言葉があります。自分の『意』という馬は暴れて言うことを聞かず
御し難く、『心』という猿は枝から枝へ跳び移って一所に落ち着くことがない、
という意味です。
そこで、馬は暴れるままに、猿は跳び回るままにしておくと、
いつの間にか馬はゆっくりと草を食べており、
猿はどこかの枝で昼寝をしているということになるわけです。




心というものは雑念妄念だらけで、落ち着かせようとすればするほど、落ち着かなくな
るわけで、あるがままに放置しておけばいつの間にか、静寂な状態に持っていける、とい
う道もあるということです。雑念妄念退治にはストイツクな道だけではないと言いたかっ
たのです。
いずれにしろ本気で観念息を目指すのであれば、数息随息で雑念妄念の制御から始める
必要があるわけです。

2013年5月26日日曜日

■こざくらの丘に坐禅会グループ

5月1日は雨模様で室内でした、やっとテラスで演奏!

1,緑いっぱいになりました
大悲寺の坐禅会のあとに、「こざくらの丘」にやって来ました
こもれびテラスの今年最初のグループです
2,色々なツールで

大豆を取り出す時に使った杵で・・・昔を思い出しています

3,庭でお茶会
サツキが紫は満開ですが白は咲きぞめです!
4,記念写真
珍しく私も写真に入っています


2013年4月24日水曜日

■般若心経の解読・・色即是空がスッキリと!

こんにゃく問答だった「色即是空」・・・スッキリ納得!!
「動画紙芝居」とPDFで

1,ブログで解説

務本塾・人生講座で
http://jinseitetugaku.blogspot.jp/2012/12/blog-post_28.htmlhttp://jinseitetugaku.blogspot.jp/2012/12/blog-post_28.html

2,YouTube「動画紙芝居」で

http://youtu.be/ShGu3Uyavqshttp://youtu.be/ShGu3Uyavqs
3,PDFでゆっくりどうぞ
https://drive.google.com/#my-drivehttps://drive.google.com/#my-drive
③番です




4,何度でも繰り返して
ゆっくり頭で理解し
ハラ(丹田)で納得し
実践しましょう


ご健闘を祈ります


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2012年10月31日水曜日

■雑念を消す方法?

普段はもちろん、坐禅の時も雑念が洪水のように押し寄せます・・どうすれば?


1,新聞から「プチ瞑想」
雑念を取り除く方法は、先人の工夫でいろいろあります。
坐禅では数字を数える数息観とか観念息とかあります。
2,マントラがでてきました

「プチ瞑想」に出ている腹式呼吸はもちろん私の得意なものですが。
マントラが出てきます。マントラとは意味のない言葉、訳すことができない言葉です。
今、般若心経を分かりやすく解説することに取り組んでいます、
般若心経のマントラは最も有名な
「ギャテイィギャティ ハラギャティ ハラソウギャティ ボージソワカ」
ですね。
「南無妙法蓮華経」も「ナンマイダブツ」もそうです。


3,先送り

腹式呼吸とマントラを繰り返していると必ず心配事やあれこれ考えが浮かんでくる。
この場合「それは後で」とか「先送り」という気持ちで流れ去るのを待つと、
又別の考えが浮かんでくるので、また「先送り」にする。雲が流れていくような感じだ。
いいですね!いいこと聞いた!

4,雲が流れていく

先送りを雲が流れていくように!!
雑念は出てくるのです、その雑念を留めないで
流してやることが消すことになるということですね


2012年10月29日月曜日

◆臨済宗雲水の托鉢が行われました

大悲寺の坐禅会・秋の摂心会の一環で托鉢修行がありました。

1,ホーーーホーーー
5人の雲水さんが「ホーーーホーーー」と大きな声で歩きます
私が先導しています
2,今日は土曜日の午前中
なかいち・仲小路などイベントが準備中です
昨年は月曜日の午前中ですから人がいませんでした。

3,お布施
通町は毎年、個別のお店にお経{四弘誓願」を行います
このようにお布施をいただくお店が増えました!
4,2時間歩きました
寺町大悲寺から大町・中小路・秋田駅、秋田駅から中小路・通り町・大悲寺
と回って9時半から11時半まで2時間コース
阿部宗徹老師がお出迎えくださいました

【引用】
「ほーーー」ではありません。「法施(ほっせ)」という言葉を、長く伸ばして言っています。
つまりお金や食べ物など物を施す「財施(ざいせ)」をした者に対して、「仏法の教えを施す」という「法施」を僧侶が行うのです。その具体的作法が「読経」です。
 托鉢は、仏教に限らずインドの一般的宗教行為の一つで、インドでは修行者は自ら働いてはいけないとされ、信者からの施しのみで生きるとされます(ただし、これは気候が平穏で、食料などが豊富な豊かな国であるインドであるから行えることでしょう。仏教が支那・日本へと北伝するに従い、托鉢のみの生活は緩和されてきました)。
 で、他者にものを施す「布施」はインド語で「da<長音>na」を翻訳したものです。この「ダーナ」を漢字に音写して「檀那(だんな)」といいます。
 これは仏教以前からあるインドの基本的道徳律で、これには「持つ者が持たぬ者に施すのは当然の義務」「持たぬ者が持つ者より施しを受けるのは当然の権利」という考えが前提にあり、これによって富者は施すという行為によって善行を積む。貧者は施しを受けることにより、善行を行わせるという、日本人の常識とは異なります。
 そこで仏教もインドの伝統にならって「布施」を基本修行と取り入れますが、先の前提に従いながらも、何らかの対価を求めない(善行を積もう・来世の幸福を求めようなど)、義務的・虚栄心で行わない、自らの物に執着する心を捨てるために行うとしました。
 それは何かを「してやっている」という普段は自覚しない傲慢な心を気づかせるための、第一歩となる修行だからです。
 ですから托鉢では、我々が物(財)を施す布施に対して、教え(法)を施すという布施を、つまりでは互いが布施をしあうことになりますね。


2012年10月8日月曜日

◆般若心経(1)教えの佛達

子供の頃から唱えています、また定年後は毎朝の日課となっていますが、なにがなんだかわからないまま唱えていました。理解もできないのは悔しいので研究を始めました。理解して、納得したら、坐禅にも役立つのではと考えています。坐禅の師匠である老師からは、「ダメだ!まだアタマから入ろうとする!」と怒られそうです。禅は「アタマで考える」ものではない・・・といつも言われていますが、理解し納得できないと前に進めないのです。

(1)教えの佛達

釈迦如来と舎利佛


仏教です、般若心経ですから、当然お釈迦様の教えです。
しかしながら、たいていの大乗仏典には「世尊」という言葉が出てきますが、
般若心経に出てくる仏たちは「観自在菩薩(観音様)」と「舎利佛(舎利子)」の二人です。

(wikiより)
舎利佛は釈迦十大弟子の一人である。漢訳では舎利子とも表される。
釈迦弟子中において、智慧第一と称される。舎利弗と目連を特に二大弟子と呼ぶ。
般若経』など大乗の経典では、小乗を代表する長老の仏弟子として登場することが多い。

観自在菩薩(観音様)
(wikiより)
仏教菩薩の一尊であり、特に日本において古代より広く信仰を集めている尊格である。
観世音菩薩」または「観自在菩薩」ともいう。一般的には「観音さま」とも呼ばれる。
副島隆彦著「隠された歴史」p134~より
般若心経は、たった262文字で表されている。その冒頭は『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時・・・・』である。この冒頭の一行にものすごい意味が込められている。『観自在菩薩=観音様。一体何者か?』が、“波羅密多”という最高の修行を実行した』という意味である。
ここに観音菩薩が現れて、舎利子に向かって、そのように話している。
・・・・・この理解でいいのだろうか?

大乗仏教ができた紀元150年頃から「観世音菩薩」が信仰された。
したがってお釈迦様(当然舎利子も)が亡くなって、すでに500年位経っている。
お釈迦様はだから「観世音菩薩」を知らない。
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観音様が舎利子に向かって教えることは時間的にできません。

如来と菩薩

菩薩とは、サンスクリットの「ボーディサットブァ」を音訳した「菩提薩埵(ぼだいさった)」を略したもので、「悟りを求める者」との意味をもつ。元々は釈迦如来の修行時代を指す言葉だったが、
大乗仏教が発展していく中で全ての人間は如来に成りうると考えられるようになり、
悟りを求めて精進する者、如来になる前段階の存在を指すようになった。

観音様は菩薩であり、悟りを求める修行中の身であります。
どうして舎利佛に向かって教えることが
できるものでしょうか。

般若心経の教えの仏ストーリー

般若心経は釈迦如来が説いたものである。
それを舎利佛が記述しておいた。
500年後
観自在菩薩が修行して悟り、迷いも苦難も乗り越えた。
そこで、舎利佛が記述し残していた教えで
観自在菩薩がありがたい
波羅蜜を説いた。





2012年5月28日月曜日

◆坐禅会がこざくらの丘に!

坐禅会の終了後「こざくらの丘」に皆さんがおいでになりました!




1,大悲寺の坐禅会

毎月の例会は、だいたい第三土曜日の午後二時から行なっています。



















2,こざくらの丘に来ました

こもれびテラスでオカリナ演奏を聴いていただきました!




















3,記念写真

テラスにて 記念写真。
大勢来ていただきました、こざくらの丘とは何か、どんな場所か、どんな生き方か・・・見ていただきました。




















4,チップが気持ちいい

観客席の広い部分に敷いたチップが気持ちいいと評判でした!





2012年4月8日日曜日

◆春の坐禅会イベント

秋田維摩会の春の集いは、阿部宗徹老師の講話とオカリナ演奏!


1,寺町の大悲寺
秋田市寺町大悲寺で行われます

























2,本堂にぞくぞく集まって来ました
本堂で行います。続々檀家の皆さんはじめ、老師のお話、オカリナ演奏楽しみに集まって来ました。

























3,オカリナ演奏
ギターは舟橋瑞郎さん・・・秋田市と酒田市で教室を開いているギターの先生です。
オカリナは魔女ichikoさん・・・老人施設や病院、お寺で演奏活動中。
























4,阿部老師の講話
体調の悪いなか、秋田においでになりました。心配シたのもウソのよう、1時間半之熱のこもった講話でした。














2012年3月23日金曜日

◆阿部老師の講話とオカリナ演奏

秋田市寺町大悲寺で阿部宗徹老師の講演とオカリナ演奏があります!




1,概要
寺町の名刹、大悲寺の本堂でオカリナ(プロのギター伴奏)を聴いていただいてから、阿部老師の講話をお聞き頂きます。


・月日    2012・4月7日(土)
・場所    秋田市寺町大悲寺 本堂
・時間    10:00~12:00
・無料    どなたでもおいでください 無料
10:00~  ギター舟橋瑞郎先生、オカリナ 魔女ichiko
10:30~  阿部宗徹老師講話 元花園大学学長、静岡臨済寺宗堂師家


2,パンフレット












































2012年1月22日日曜日

■大寒の坐禅会

大寒です!ただでさえ寒いのに、お寺は更に寒いのですが例会です。

1,秋田市寺町大悲寺
冬の大悲寺です。「本日座禅会」が雪の中に立てかけてあります。雪の山で駐車場スペースがほとんどなくなっています。
108年も坐禅会を開いている古いお寺です。




















2,坐禅会風景
秋田維摩会(ゆいまかい)の坐禅・1月例会です。本堂に坐っています。
20分づつ二回に分けて坐ります。
大寒ですから寒さがしみわたってきます・・・心頭滅却・・・でも、お寺は広く天井も高いので、やはり寒い!!




















3,呼吸法から入りました
坐禅を初めて20年になります。腹式呼吸法(調和道 丹田呼吸法)を行なっていましたが、その延長線上に坐禅がありました。
呼吸法は、肉体の健康のため、人間として腹を作るため=丹田を鍛えるためとして始めました。
坐禅は、呼吸法のうち、長い呼吸が坐禅と同じでしたので、心の健康のため、人生とは何かを考えるため入門シました。
















4,五感のカベ
【引用】

私達の感覚器官は、実にごまかされやすいようにできています。特に見ることに関しては、手放しなのです。このような体験はありませんか?。
隣の列車が前進しているのを見て、自分の乗っている列車がバックしていると錯覚したことが?・・・。また、同じスピードで動いている列車を見て、自分の乗っている列車が止まっていると錯覚したことが?・・・。この世の動きもこれと良く似ていて、周りの物と自分とが同じ時間(スピード)で動いているために、本当にその物があるような錯覚に陥ってしまうのです。
空気を冷やせば水になり、水を凍らせれば氷になることは、誰でも頭では解っています。でも私達は、本当に氷を空気だと思っているでしょうか?。本当にあるのは空気で、氷は一時の存在です。ということは、氷は実在しないことになります。しかし私達は、本当に有ると誤解しているのです。
坐禅でこのカベを壊すことが最大の狙いですが、なかなか突き抜けれないカベです。









2012年1月12日木曜日

■本当の自分とは

本当の自分とかもう一人の自分とは何のことでしょうか?





1,坐禅は己事究明
坐禅は「己事究明」・・・つまり本当の自分、もう一人の自分を究明することだとい合われます。(我が座禅会の会則の一番に書かれています)
坐禅の坐の字は土の上に人が2つ書かれていますね。これがそれを表しているのですが・・・
20年もやっているのに、その意味がよく分かっていない、分かったつもりでもよく身についていない。お寺さんだってどうなのかなあ・・・・・!!

2,人が二人とは
下の図は、これこそ私だと思う肉体の私が左のキューピーさん。それと全く同じ姿形で収まっているのがもう一人の自分(右のキューピーさん)
と言われてもピントこないでしょう・・・・。我々は五感で感じることしか信じられませんからね!!



















3,自動車で考えましょう
【引用:理想社会を考える会
もし、この体が本当の自分でなく乗り物である車だとしたら、あなたは車と運転手のどちらを大切にしますか?。どんなに車が立派でも、運転手が乗っていなければ車は動かないのです。車が勝手に動くことはないからです。人間も体が勝手に動くことはないのです。体の中に運転手が入って、こう動かそう、ああ動かそう、と考え運転するから体は動くのです。
では車と運転手と、どちらが本当の自分でしょうか?。そうです。運転手が本当の自分なのです。運転手と体があまりにも一体化しているため、車を自分だと勘違いしているのです。もし、つねっても叩いても痛く感じなかったら、もしかしたら体を自分だと思わないかも知れません。そうなら、火の中に手を入れ大火傷をしたり、手に釘を打ち込んで大怪我をしたり、お腹がすかないから食べないで飢え死にするかも知れません。それではボディーが維持できないので、私達には五つの感覚器官が与えられているのです。すなわち、見る目と、聞く耳と、匂いを嗅ぐ鼻と、味わう舌と、感触を感じる肌の、五つの感覚器官が与えられているのです。
私達のボディーと車とは実に良く似ています。車を動かすために、ガソリンやオイルや水を入れますが、私達も食べ物を食べ、水を飲みます。車には、サニーだとかコロナだとか名前が付いていますが、私達にも太郎とか花子とか名前が付いています。また人間は口を通してものをいいますが、車もクラクションを通してものをいいます。人間は排泄物を出しますが、車も排気ガスを出します。こうして見ると、私達と車とは実に良く似ていることが分かります。ただ、固いか柔らかいかの違いがあるだけです。
それでは、一番大切な部分に触れることにしましょう。車は運転手がものを考えますが、人間は誰がものを考えるのでしょうか?。もう少し分かりやすく、車は人間が乗って運転しますが、人間を運転しているのは一体誰なのでしょうか?。どんな名前の運転手なのでしょうか?。本当の自分は誰で、どんな名前の持ち主なのでしょうか?


























4,生命(いのち)が運転
【引用:同上】

誰もが、見て触れるこのボディーを自分だと思っております。でも本当の自分は、ボディーでは無いのです。本当の自分は、ボディーを運転している「生命」という名の運転手なのです。生命という名の運転手は、エネルギーですから目には見えません。その見えない生命エネルギーが、ものを考え、言葉を話し、行動しているのです。自分だと思っているこのボディーは、生命エネルギーの住処であり表現媒体なのです。ボディーは、老い、病み、死にますが、生命エネルギーは年も取らないし、病気にもならないし、死ぬこともない永遠不滅の存在なのです。
あなたに亡くなった祖父母がいたとしましょう。その祖父母は亡くなったのではなく、乗り物が無くなっただけで、運転していた生命は無くなっていないのです。今も生き、あなたを見守っています。使い物にならなくなった車が廃棄処分されるように、祖父母の体も使い物にならなくなったから廃棄処分されただけなのです。